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自閉症文学のススメ(14)

 皆様こんにちは、前回までは例文を使った講座を行いましたが、今回の講座は最終回を次に控えるのでちょっとしたコラムになります。
Lektion28:独自言語のススメ
 皆様は、日本語を使っていますね。日本人なのでそれは当たり前のことなのですが、私を含め発達障碍者というものはたまに言葉選びを間違えたりします。それは知識不足もないとはいえませんが、ひょっとしたら定型者とは根本的に異なる独自の思考法をしているからかもしれません。言語は文化の一種です、そしてその人間の人格の表現とも言えます。すなわち、人格や文化が違ったら当然使用する言語も違ってくるわけです。発達障碍者は当然、定型者とは違います。すなわち、人格もさることながら文化的にもあるいは異なるものなのかもしれません。日本は幸運にして80年前までは、あるいは160年前までは、縄文時代と飛鳥や古墳などの時代を別と考えるならば2700年程度前までは根本的に異なる文化とは接することなく、独自の文化に浸かっていることができました。そして、現在は変質しているものの根本的な断絶は経験せず現在まで連綿とした三千年弱の文化を築いています。人間は、だれしもたいていは自分の文化というものの特異性を意識せず育っています。特に、他の文化と接する機会がない場合は余計に。何が言いたいかと言いますと、発達障碍者は独自の言語体系を構築する素養に恵まれているということです。それこそ、指輪物語の原文は古典教養によって編まれた独自言語を原文では使用していますが、あれと同じレベルとまではいかなくとも、ユルヴィーユのような空想都市などを構築した人間もいるように、そういった思考は発達障碍者の最も得意とする分野なのではないかと思います。すなわち、発達障碍者こそ、表現者として最も向いているのだと私はここに発言いたします。ゆえに、当講座は自閉症「文学の」ススメなのです。別に絵が描けたり音楽が作れたりするならばそちらの得意分野を生かすのがよろしいと思いますが、大抵そういったものは別の才能や果てしのない教養が必要でございます。しかし、文字を操る行為は定型者に劣らない知性と教養、そして少しの試行錯誤があれば容易に可能です。ゆえに、私は文学をすすめるのです。漫画を描くには絵を描く必要があります。歌を作るには音を奏でる必要があります。それはどちらも非言語的才能です。しかし、物語は言語的才能であり、なおかつ特別な道具を必要としません。極論、ペンと紙すらない所でも、文字すらなくとも、物語を作ることはできます。保存ができないだけで。物語は、最も古風な表現体系であり、ゆえに世間では漫画よりも貴ばれているのです。逆に言えば、物語の地位が高いのは歴史性だけであり、そして物語も昔はそこまで高い地位ではありませんでした。いずれ、漫画が高い地位にたどり着くことも、私は不可能ではないと思っています。
Lektion29:振り返ってみよう、そもそもここで言う自閉症文学とは。
 自閉症文学とはいったいなんであるか。それは、発達障碍者という一人一人が特異な文化を持つ文明圏の、文化紹介だと私は心得ています。それが、エッセイであれ、物語であれ、己の脳髄から作ったものには違いありません。すなわち、この世に出た全ての作品は自己紹介なのです。ゆえに、優れた作品を作った人間が倫理観に悖る行為をすると叩かれるわけです。紹介と自己が違うじゃないか、と。とはいえ、作品が優れているとは何が優れているかという判断基準がありません。面白いというものは技巧であり、判断基準も存在しますが、物語の本当の評価軸ともいえる好ましいかどうかということはそれこそ個々人によって違います。面白くても好ましくない作品というものはどれだけ面白くても評価はされません。好ましくないのですから。だれが好ましいものに進んで近寄りますか。仮に近寄れと強制しても恨みを買うだけでしょう。嫌いなものを嫌いと言える社会は健全です。すなわち、それを好ましいと思う者が多数いるからとそれを嫌いだと言えない社会は不健全極まりありません。社会とは、多様性を認めなければ柔軟たりえません。そして、柔軟ではない社会は血管の様に寿命が早いでしょう。ましてや、それを好ましいと思う者が社会的地位が高かったり、あるいは単純に強かったりするから人数が少なくてもまかり通る社会とは、もはや人間社会ではありません。それは、ただのディストピアです。


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