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グループワークの冊子を作成しました。~これからPEAKS神戸にいらっしゃる方々へ~

7月末に我々は「PEAKS神戸の半径1㎞以内のおすすめスポット」というテーマでグループワークを行いました。内容はグループごとにおすすめスポットを挙げ、実際に現地に行き、写真を撮影し、プレゼンテーションをするというものでした。

これをただのグループワークで終わらせるのは惜しいということもあり、このグループワークの内容を、私ともう一人の利用者が、訓練の一環として冊子にしました。この冊子は今後、PEAKS神戸に相談に来られた方や関係機関の方々にお配りする予定です。

一利用者として、就労移行支援事業所の利用を検討している方には、ご自身に合う事業所を納得して選んでいただきたいと思っています。それが前向きかつ自発的に訓練することに繋がると考えているからです。そして就職へ近道でもあるからです。そのためにもPEAKS神戸についての情報を色々な形でお伝えできたらと思っています。

この冊子を通して、「掲載されているスポットのことだけではなく、利用者の個性や訓練内容についても読み取っていただきたい。」「PEAKS神戸に相談や見学に来ただけでは分からない部分も、この本を通して知っていただき、利用するかどうかの判断材料の一つにしていただきたい。」この様な思いを込めて作っておりますので、どうかPEAKS神戸にいらした際は、この冊子を受け取っていただければ幸いです。



当事者研究編ノ第5回

 皆様、疫病騒ぎの中いかがお過ごしでしょうか。みっちゃんです。
 本日は、前回に引き続き記憶の結晶化について記述していきたいと思います。前回は、記憶の常態化による学習的無力感が引き起こす負のトラウマでしたね。で、この負のトラウマを解消するには、そのトラウマの対象物を患者が納得する形で処分する必要があると話しました。無論、それ自体は非常に難しいことです。なので、その代替として記憶の結晶を溶かす、もしくは無害化するために長期にわたるカウンセリングが行われるのですが、それには途方もない時間を必要とします。予算は保険が効く場合はそこまで必要ではありませんが、投薬治療が重なった場合、天文学的とまでは言いませんが、ある程度の予算を覚悟しなければなりません。では、それをどうすれば加害者に賠償請求することができるのか。私は弁護士ではないのでそのあたりは詳しくありませんが、それを証明して加害者に賠償請求をするために、ある一つの提案をしたいと思います。それはすなわち、精神的被害を可算化するために、精神的な単位を統一し、定量化することであります。かつて、人類は時間も情報も可算化できませんでした。しかし、今は時間は秒単位で、情報はビット単位で可算化できています。では精神を可算化するためにはどうすればいいのか。それには、まずはカウンセリングの時間を全国定額の自費診療に換算した額をはじき出すことが必要かと思われます。無論、投薬治療などを含める必要はありますし、投薬治療によって内臓に与えたダメージやQOLなども考える必要があります。そして、それを繰り返して計算していけば、精神的被害というものの財政的罰金を計算することは可能になります。すなわち、名誉棄損などを応用した精神的傷害罪の可視化であります。これが、私が今思いつく限りのトラウマの原本の処分方法であります。
 そして、この方法はある福音を生むことになります。精神というものの計量化であります。無論、端緒につくであろうばかりであり、そもそもこれが何の役に立つのか疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、これは非常に有用なものになりえるのです。それは、精神、すなわち非物理的存在を証明する方法でございます。人間は古来より「魂」という概念を考えていました。ラディカルな唯物論者はそれをない、もしくはあったとしてもただの「におい」に過ぎないと一蹴し、逆に唯心論者などは魂や精神こそが人間が人間足りうる必須であり、それがない人間はただのがらんどうに過ぎない、と反論しておりました。そうです、精神というものの被害状況が脳機能などの可視化が進んだ結果観測されて証明されうるものであると理解し得た時、人類は物理的形而下世界のみならず、芸術的形而上世界をも手中に収めることになるのです。すなわち、精神的被害が証明されるということは、人間がついに魂というものの観測の第一段階に到達したという証拠になりうるのです。これは、はっきり言って画期的も画期的、産業革命や情報化革命以上の、第五産業とでもいうべき革命的証明になるでしょう。人類は、まずは農耕を行い、次に商業を行い、そして工業を行い、ついには情報を取り扱うだけで銭を生むところにまで社会は到達しました。情報産業が第四次産業と呼ばれる理由でもございますが、この次と言えば、精神を可視化することによる第五次産業が存在しうると私はここで予言いたします。無論、それが証明され実用化されるまでには私は生きていないでしょう。しかし、この予言書が識者知性者の目にとどまり、それを証明しても何ら無益ではないと判断されて、実際に証明された場合、私が第一提唱者として歴史に名が残るのです!
 やや、興奮のあまり妙なことを口走ってしまいましたが、訂正や撤回は致しません。これに関しては私は本気です。本気で、私は、精神という無形非物理的存在が、可視化できると、信じています。
 では、これがなぜ当事者研究とつながるのか。それはまた次回、第6回において講義したいと思います。


当事者研究編ノ第4回

皆様ごきげんよう、みっちゃんでございます。
さて、今回からは趣向を変えて仮想脳内物質ゲヘゲラーデンではなく、それ以外の、ああつまりは「記憶の結晶化」について記していきたいと思います。
 この「記憶の結晶化」という概念ですが、まず記憶があります。この記憶というものは定型者であれば時間とともに忘れられていく存在でございます。逆説的ではありますが、だからこそ人間は発狂せずに生きていられるのだと思います。
 では、この記憶という本来流れ去るものが結晶化し、脳に半永久的にとどまってしまってはどうなるか。いわゆる「トラウマ」というものになります。この場合、トラウマの本来の定義とは異なり、正の感情であっても「トラウマ」的発作を伴うものであれば、トラウマとして扱うことにします。無論、大抵は負の感情がトラウマになることが多く、もともとの研究がシェルショック、つまりは戦争に於ける神経症の研究から始まったものなので当たり前ではあるのですが。では、「正のトラウマ」とは一体どのような現象であるのか。いろいろと考えられますが、一般の定型者にわかりやすく解説するならば、前回同様宗教に当てはめて「信仰心」ではないかと思われます。誰が言ったかまでは覚えていませんが、「奇跡とは信仰の結果ではなく、切欠となるものである」。つまり、前回扱った「ゲヘゲラーデン」が多量に分泌された結果、その行為をすれば結晶化された記憶からゲヘゲラーデンが分泌され、結果として幸福になるため、故にその記憶はますます増幅される、といったことではないかと思います。無論、逆もまた真であり、というよりはそもそもその逆である「負のトラウマ」こそが本来の「トラウマ」と呼ばれている結晶なのではございますが、ではなぜ私が「正のトラウマ」を提唱するのか。なぜならば、本来脳機能というものは無記であり、正負という概念は人間に有用か否か、あるいは有害かといったことによって同じ現象が区別されているだけであり、どちらも同じ機序によって行われる電気信号であるからです。つまりは、「正のトラウマ」というものは「負のトラウマ」と同じ機序だからこそ、それを打ち消す可能性を持つということであり、脳回路の誘導次第によっては容易にトラウマ、所謂「負のトラウマ」から脱却が可能になるのではないか、と思ったからであります。即ち、「正のトラウマ」というものは、「負のトラウマ」を証明する上で、患者や被験者に負担を強いないで、同じ現象を作り上げることのできる絶好の実験方法だからであります。そして、この「正のトラウマ」というものは誰も提唱していないのではないかと思いまして、僭越ながら私が患者という立場から提唱するものであります。
 では、この「記憶の結晶」とはなぜ正負問わず「トラウマ」になるのか。まずはそこから探っていきましょう。紙面が少なくなってきたので必然的に次回以降に持ち越しにはなりますが。
 まず、記憶があります。これ自体は、ただの情報です。即ち、本来なら流れ去り記憶からは忘却しうるものであります。しかし、それが繰り返し行われると、人間はその状態を常態だと思い込み、その情報を常時活用するために覚えておこうとします。これは一種の闘争本能や防衛本能の一種だと思いますが、次に同じ状態になったときにより巧く対処するために、記憶するのです。しかし、それが巧くいかない状態が繰り返し行われた場合、記憶の蓄積は行われても、今度は脳回路が異常を来しそれを抹消できなくなります。その当たりは専門家が詳しいとは思いますので、私からは敢えて提唱はいたしませんが。所謂、学習的無力感というもので、これが常態化するとトラウマになってしまいます。こうなると、恐らく原本を何らかの形で患者が納得する形で処分しない限りは、繰り返し想起されて、最悪のケースになるでしょう。それを防ぐにはどうすればよいか。紙面が尽きたので、次回に移りたいと思います。


当事者研究編ノ第3回

皆様こんにちは、みっちゃんです。
 さて、前回はゲヘゲラーデンの発動状況と仏教の成立を絡めていきましたが、今回はゲヘゲラーデンの発動結果とその結果の感情作用について探っていきたいと思います。
 まず、ゲヘゲラーデンが分泌される状況ですが、それは前回述べた通り好きなことをするという行動によって得られる多幸感です。では、なぜ好きなことを反復できるのか。それはもちろん、多幸感が得られるからなのですが、その多幸感の正体こそが、ゲヘゲラーデンではないかと私は考えます。すなわち、扁桃体あたりから分泌されるゲヘゲラーデンが分泌される行動を、人は快であるという感情として認識し、その多幸感、つまりは快感情を得たいがために、それを反復して行うのではないかと思われます。
 この理論は、物事を飽きてくることや、最近よく使われる「〇〇ロス」、代表的なものは「ペットロス」でしょうか、も説明できると思います。つまりは、「飽きる」ということはその行動を行ってもゲヘゲラーデンが分泌されない、もしくは閾値に足りなくなるといった脳内状況であり、「○○ロス」というものはその快感情を伴う行動をもうできないということへのフラストレーションだということです。
 薬物耐性という言葉があります。つまりは、薬物を使っても効果が得られないことですが、これはなぜ起きるかと言えば、同じ薬品を用いてもその薬品への免疫反応ができてしまって薬品が効きづらくなる、もしくは全く効かなくなるという現象、だったはずですが、なぜその現象を取り上げたかと言えば、同じことが脳内物質にも言えるのではないかという推測でございます。つまりは、よく最近、最初に読んだときに比べて感動が薄れてきたなあ、と思う時には、脳内では同じ量の物質が駆け巡っていても、その物質の量に脳回路が慣れてしまっており、反応が鈍くなっているのではないか、ということです。逆に言えば、そういった「飽き」の来ない作品というものは、本物の名作であり、その人にとっての聖書聖典と言っても、まず過言ではないと思います。
 次に、このゲヘゲラーデンと私が呼んでいる仮想脳内物質ですが、既存のドーパミン他によって説明できるか否かということでございますが、私の経験則から言って「否」だと断言致します。無論、私の経験則なので専門家の研究には及ばないとは思いますが、今まである程度の種類、丸向薬品を飲んできましたが、薬品によってこの境地に至ったことはありません。故に、ゲヘゲラーデンは存在する蓋然性は高いと思われます。
 そして、このゲヘゲラーデン、どういった感情作用をもつかと推察するならば、上述した快感・多幸感、詰まるところ、飲酒行為を伴わないものの、「酔った」感情作用に近いと思われます。そして、飲酒と違い健康を害しない為に、しばしば依存症の様相を呈しがちです。特に、前述した「○○ロス」というものは禁断症状に他ならず、逆に「飽きが来る」という状態になったのならば依存症からの脱却を自力で成し遂げたようなものでございます。即ち、ゲヘゲラーデンは脳内物質であり、単体では健康を害しないからこそ、浴びるほどその脳内物質を分泌されうる状況に置くことによって、大量摂取による良性の薬物耐性を付けるという他では言語道断な治療法が可能なのです。何が言いたいかと言いますと、ゲヘゲラーデンが分泌されうる状況になった場合、それを下手に取り上げると絶対に恨まれます。それは断言します。そうではなく逆に、浴びるように好きなだけそれをやらせておけば、いずれ飽きが生じてゲヘゲラーデンは閾値を超えなくなります。そうなったら自然と離れていくので、その段階であくまで取り上げるのではなく向こうから差し出させる状態になるまで放置しておきましょう。
 即ち、ここからはじき出される結論としては、所々で見られる依存症というものは健康被害が無い場合はどうせ飽きたら手放すので、好きにさせて恨まれない頃にやめさせましょう、ということです。


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